迷いながらも、いつだって人のために行動するアナタへ。
「でも、まあ『多分10人いたら10人が、教員続けた方がいいって言うと思うけど。』とは言われましたけどね。」
半分笑みを浮かべながら当時を振り返るのは、伊豆大島で農業を営む駒村晃司さん。
努力の末に夢だった教師の道を、現役合格という最高の形で歩み始めた。
しかし、わずか3年後。
10人が10人、反対するだろう“離島で新規就農”という道を選ぶ。
島での生活。
移住者の苦悩。
迷いの中に見る一筋の光。
決して順風満帆とは言えない日々の中でも、彼は現実と向き合い、人の未来を、島の未来を思い続けている。
教師から農家へ──農園駒・駒村晃司さんのリアルストーリーに迫る。

教師を辞め、離島へ|安定を手放した決断の裏側
「これはまぁ毎回ちょっと困るところではあるんですけど。人きっかけで来てるんで。」
困ったように移住のきっかけを話す駒村さんは、学生時代にボランティア団体で活動していた。
――2013年、台風26号が伊豆大島を襲う。
伊豆大島出身のメンバーもいたその団体は、現地で活動し、駒村さんも共に汗を流した。
卒業後は目標だった教師としての道を歩み出す。
「まぁ、ゆくゆくは教え子がJICAに入ったとか、青年海外協力隊をやってるとか、そういう生徒が出てくればいいなって思ってたんですけど。」
だが現実は厳しく、1年目に心身のバランスを崩した。
「変にちょっと気張りすぎて、12月になんかこう…一気に押し寄せちゃったみたいな感じで、もう駄目になっちゃって。」
「まぁでも、多分こんな感じでどんどん日々過ぎてくのかなあみたいな。」
学校を良くしようと管理職に提案するも、激務の中で取り入れられることはなく、“変わらないことを重視する風潮”に、教師としてのキャリアに期待感を持てなくなっていった。
復帰を果たした3年目、かつての仲間から連絡が入る。
「5月とかだったのかな?結構早い段階に、まずそういう(伊豆大島で一緒に農業しよう)話をされて。いやいや、無理無理無理。そんなん行けるわけないじゃん、みたいな話をして。」
「農業に興味がなかったわけではない。でも、僕の中では農業って世襲するもの。親から受け継ぐもので、とてもじゃないけど“やりたい”と思ってなれるもんじゃないだろうなっていうのは、一つあったんですよ。」
それでも、かつて見た伊豆大島の現状と、“島を建て直す”という大義が駒村さんの胸を刺した。
やがて人事の意向調査が始まる。
「ここで退職希望を“しない”ってしたら、また来年も教員だなぁと思って。校長先生に『ちょっとお時間取ってもらえませんか?』って相談しに行ったんですよ。」
「『校長としての立場で言うとやめてほしくないけど、一大人として話をするんだったら、もうこうやって相談しに来てる時点で、やってみたいんじゃないの?』って言われたんですよ。」
この言葉をきっかけに駒村さんは決断する。
「これちゃんと親父に話さなきゃいけないってなって、親父に話しました。」
「親父は『まぁもう大人なんだしお前の好きにすれば』みたいな。でも『多分10人いたら10人が、教員続けた方がいいって言うと思うけど』とは言われましたけどね。」
2017年3月末、駒村さんは教師を辞め、農家になる道を選んだ。

“変わらない世界”を抜け出し、“何でもできる世界”へ
大島町新規就農者支援研修に参加し、2年間の農業訓練を経て2019年に独立。
移住から数えると、島生活はすでに8年を過ぎた。
「今は島の方があってる気がしますけどね。」
都会の便利さとは無縁の暮らし。
「なんかメディアとか見てて、すごい美味しそうなドーナツとか出てきたりして『うわぁ、食いてぇ』と思っても、なんかチョコとか食えばなんとなく食った気になれたりするタイプなんで。あぁ全然大丈夫だな、みたいな。」
「まずそこが合うか合わないか、超重要だと思うんですよ。コンビニ行きたいとか、都会にしかないものが好きな人は、まず大島での暮らしは無理だと思います。」
そう語る駒村さんだが、本当の意味で島民に受け入れてもらうため、消防団や踊りの保存会など、地域のコミュニティに積極的に飛び込んだ。
「僕以外はみんな島の人だったりするんで、多分特殊っすね。でも僕、多分キモいぐらい特殊だと思います。なんかそういう地域(コミュニティ)に入ってくっていうのは。地域の人でも入ってない人がいるんで。」
変わらないことを大切にする学校の世界から一変、島での生活は刺激的で、様々な人との出会いがあった。
「思ったことがあって。教員っていう道をやめた瞬間に、もう個人事業主なんで『何でもできるじゃん』っていう気持ちは、あるにはあるんですよ。だから今は、結構いろんなバイトやってみたりもしてるし。」
農業を軸に据えながらも、家庭教師や炭焼き、お土産づくりなど活動の幅を広げる。
「まぁ、大島に来た理由は農業なんで、農業はもちろん続けていきたいなって思いはあるんですけど。農業は軸だけど、あんまり捉われなくてもいいのかなと思ってます。」
教師時代には想像もしなかった「何でもできる世界」が、島での暮らしの中には広がっていた。

島の農業を未来へ___次世代へ繋ぐ挑戦
「僕はどっちかっていうと、まぁ最終的にはちゃんと地域の人も巻き込んだ何かをしたいなっていうのはあるんですよ。」
移住して9年目を迎える今、駒村さんは1つの想いを抱いている。
「大島っていう特性なのか分からないですけど、とっても自由な農業が展開できる島ではある。でも、産業にはなってない。」
「北海道って何?って言われても、すぐジャガイモとか出てくるじゃないですか。大島ってなった時に出てこない。」
「だから僕も困ってるんですけど、これを作って、これだけ売れば、こういう生活があるよっていうのがないのが今の大島。」
大島には農協がなく、自由度の高い農業ができる反面、先輩農家の知見が体系化されず、消えてしまう恐れすらある。
「あの人達(先輩農家さんたち)がいなくなったら、もうその産業ごとなくなる。その人が持ってる品目がなくなるレベルになってしまって…。」
「市場の人とかは、その人が作ってくれる花とかを買うから島の生産者と繋がりがあるんですけど。そういう人がもういなくなって、伊豆大島から取れなくなるってなったら、伊豆大島との繋がりが無くなるわけなんで。伊豆大島にとったらとんでもない損害じゃないですか。」
「もうちょっと広げていったりとか、次の世代に渡そうっていう行動をしていかないと。」
「まぁ確かに自分だけはいいかもしれないけど、次の農業って考えたりとか、その次の世代って考えた時に何も残んないよって思うんですけど。」
だからこそ駒村さんは挑戦する。
「僕としてはモデルケースを作りたい。例えば大島で育った子が、また(島に)戻ってきて農業をやる。」
農業が島の子ども達の職業選択に自然と上がるように。
さらに動いた。
「卒業者が出てったら中々繋がれる場がなくなるなぁと思って。青年会っていうものをちょっと発足したんですよ。だから、まぁ情報共有の場として使ってたんですけど。」
2年間の農業研修を共にした同期たちと“農業青年会”を立ち上げた。
「みんなと同じ品目を作って、市場に出して買い取ってもらえるような仕組みとかを作るとか。そういうのをちょっと今、会の中では模索してるって感じですかね。」
「青年会の中で各々が得意な分野を生かして、そういう産業を見つけられればなぁとは、ちょっと思ってますけど。」
農業には不可避なリスクが付き物だ。収穫間近の作物が自然災害で全滅することもある。さらに移住や新規就農といった背景から「どうせすぐに辞めるだろう」というイメージも根強く、時には心無い言葉で残念な気持ちになることもあった。それでも島の未来や農業と向き合い続け、前進している。
少しずつ、でも着実に。

迷いながらも、やっぱり「人のため」に歩き続ける。
「でもねぇ、なんかちょっと…。数年前すごいモヤモヤしてたんですけど。やっぱなんかこう…大きなお世話なのかなと思ったりした時期もあって。」
「実は大島の人はそんな事は求めてないのかなぁ…みたいな。」
「別にそんなことする必要ないのかなと思ってた時期もあったんです。各々それで成り立ってるし。現状を俯瞰した時に、ふとそういうことを思ったり…。」
移住者だからこそ、新規就農者だからこそ見える課題。けれど島で生まれ育ったわけではない。そんな迷いの中でも、駒村さんは行動し続ける。
「まぁ、実際そういう行動を起こしてみたりとか、ちょっと深く話を聞いてみると“こういうことって大切だよね”って実は思ってたっていうのもあったり。」
「やってた時はなんか、まぁ大きなお世話感…。あんまり熱量もないしなと思ってたんですけど、意外にちゃんと聞いてみると必要だなと思ってるっていう。」
少しずつ、周囲の人が必要としてくれていることを肌で感じるようになっていた。
「割と若い世代はちょっとそう思ってんのかなぁってのも感じるし。徐々にやっぱり上の人達(先輩農家)も、次の世代にっていう気持ちもあるのかなぁと思ってきたって感じです。」
完璧な答えはない。
ビジョンがクリアになっているわけでもない。
考えもうまくまとまっていない。
けれど、方向性は間違っていない。
「まぁ全部難しいっすけど。少なからず『いいな』とか『よかったな』って思ってくれる人が多くなるようなことをした方がいいのかな、とか思ってます。」
「まぁ大学とか卒業して大島に帰ってきたりとか、それ(農業)を職業にっていうのが、まぁまぁ、すごく理想を言えばそんな感じなんです。」
強さと迷いが同居する言葉。
それでも駒村さんは「人のため」に歩みを止めない。
彼は高校時代、イップスを抱えながらもチームを第一に考え、コーチ役を担った。大学時代も被災地でボランティア活動に奔走した。そして教師を辞め、離島で新規就農したのも、島や島の人々を思ったからだ。今もまた、悩みながら描くビジョンの中心には「人のため」がある。
こういう人が報われない未来があってはならない。
島の農業が、子どもの未来を照らすその日は必ず来る。
